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今日は何曜日? [本のはなし]

今日は何曜日?って認知症のテストのようだけど。

朝、起きてテレビをつけると、「あさイチ」をやっていた?
あれ?今日は日曜日じゃないの?

大学も夏休みで授業がないので、曜日の感覚が薄れていた上に、
原稿の締め切りもクリアーして、すっかり気が緩んでいた。
そこに仲間の一人がコロナ陽性になって、娘さんと一緒に自宅隔離生活をし始めたので、夜中までメッセンジャーでチャットを続けていたりしていたので、すっかり日常生活のペースが狂ってしまっていた。

おまけにオリンピックとパラリンピックでテレビを見なくなってしまったことも大きい。
朝から一日中やってたからね。

それともう一つ。
佐伯泰英の小説『出絞(でしぼ)と花かんざし』(光文社文庫)を寝る前に読みだして止まらなくなって、数日夜更かしが続いてしまったことも大きい。

佐伯泰英が北九州出身の作家だということは、数年前にたまたた北九州市立図書館に立ち寄ったときに、郷土の作家たちというコーナーでたまたま知った。

彼の作品は書店に行くと書棚いっぱいに並んでいるので、否応なくその存在は気になっていたが、同郷(私が北九州を郷里と言えればだけど)だとは知らなかった。

それで読んでみようとは思っていたのだが、何せ作品が多すぎる。
しかもシリーズ物がほとんどで、何巻も何十巻もあるものばかり。
どこから手を付けてよいやら悩んでいるうちに、今に至ってしまった。
読みだして気に入ると、次から次へと読みたくなるので、ほかの本が読めなくなるのが嫌なのだ。(へんかしら)

たまたま、書店で「1冊読み切り!」と帯にあった本を見つけたので、早速購入した。
「一冊読み切り!」とわざわざ帯に書いてあるところを見ると、私みたいにシリーズ本には躊躇している読者が多いのだろうな。

『出絞(でしぼ)と花かんざし』
帯に「王道にして新境地、佐伯泰英の新たなる傑作!」とうたっているが、どこが王道で、どこが新境地かわからず、気になる。
海外ミステリなどは必ず後ろに解説がついているのに、日本の小説にはついていないのね。

あらましを説明すると。
舞台は江戸時代の山城の国、京の都。
時代小説というところが「王道」なのか。
新境地は?お侍が出てこないところなのかな。

主人公は、鴨川の源流、北山の一角にある山奥の雲ケ畑という郷のはずれの「山小屋」に生まれた女の子「かえで」。
山稼ぎ(山仕事)をしながら鴨川の水源の一つ、祖父谷川の水守をしている父、岩男とヤマという赤犬と一緒に暮らしている。
母は京の祇園の出で、かえでが物心つくかつかないうちに厳しい山里暮らしに慣れずに死んだといわれて育った。
山稼ぎをする父とヤマと一緒に山を歩きまわるかえでを見守るのは、6つ年上の従兄の萬吉。

萬吉の父も山稼ぎをしているが、三男の彼はいずれは京で修業をして宮大工になることを夢見ている。
そんな萬吉を見て、かえでもまた京に出たいと思っていた。
宮大工になるには読み書きができなければと考えた萬吉は、かえでと一緒に村長の妻の茂に手習いを頼む。

茂は祇園の出で、読み書きができたのだ。彼女はまた、同じく外者だったかえでの母を知っていた。

ある日萬吉は、かえでを京の都を遠く望める峠まで連れていき、見せてやることにした。
その帰り道、祇園のお茶屋の主夫婦と出会う。夫婦は萬吉をかえでを気に入り、いずれ京に出てくることがあれば頼ってくるようにいう。

そうこうするうちに、かえでの岩男が行方不明になり、山で死んでいるのが見つかる。
天涯孤独になるかえで・・・・

とまあ、こんな話なのだが、この萬吉とかえで。萬吉は子どもながらにしっかりとした少年で、体格も人一倍大きく、賢くて大人びている。
かえでもほうも、愛らしい少女で、年を経るうちに舞妓よりも美しいといわれるようになる。
二人とも気立てもいいので、周りの人もみな手を差し伸べたくなるのだ。
しかも、二人とも優れた能力と頑張りを見せていく。

こんな、美男美女の幼い二人の恋物語になる前のはなし。
そんな話あるか?というのは野暮なこと。
艱難辛苦を乗り越えて、二人は進んでいくのであります。

佐伯泰英がストーリーテラーとしては名高いことは知っていたが、
それはそれはテンポよく話が進んでいくので、寝る前に読むと夜更かししてしまうのだ。
さほど人間心理の裏やらひだやらの深読みはしなくてもOK。
これが大勢の読者をひきつけるコツなのか。
1冊だけ読んで評価するのは早いけどね。









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久々のぺレス警部 [本のはなし]

6月も20日となり、もうすぐ1年の半分が過ぎていく。明日は夏至。
その後はどんどん日が短くなって夜が早く来る、ううう…

暗い季節と言えば、英国のシェトランド。やみくもな結び付け方…か。

久々に、アン・クリーブスのぺレス警部シリーズを読んだ。
昨年11月に出た『空の群像』。
TVドラマ化されたのを繰り返しみているので、どうしても役者の顔が浮かんでしまう。


最近の海外ミステリーでは、主人公が男性で、妻や恋人を失くし、残された一人娘とはうまくいかない…という設定がなぜかやたら多い。

シャーロック・ホームズもポアロもモースも独身だし、バーナビー警部には奥さんがいるけれど、料理下手で美人でもない(性差別?)。アメリカのコロンボの妻は話に出てくるだけで、決して顔は見せない。

妻や恋人があまりに強力で魅力的な存在だと、ミステリーとしてのストーリーが混乱するからかしら。
確かに論理的思考が勝負のミステリーだと、情動脳はあまり働かない方がいいかもね。ドラマではその葛藤が描かれることが多いのだけど。

ぺレス警部は、シリーズの最初の方で婚約者フランを失い、その忘れ形見のキャシーを娘として育てているが、いまだにフランの思い出に縛られている。

でも、今回は、2作前の『水の葬送』で登場したインヴァネス署のウィロー・リーブズ警部が登場して、ぺレスの人生に変化が起きそうな予感が。

ぺレス警部シリーズでは、毎回シェトランド独自の社会や文化が描かれていて、興味が尽きないのだけれど、今回はシェトランド諸島の自然が描かれる。それも、大雨による地滑り。
シェトランド諸島は北極に近いため、木登りする木さえないとキャシーが嘆くほど。しかも、平らな島であるため、地滑りが多発しているという。

本書の始まりも、ぺレスの知人であるマグナス老人の葬儀の最中に大規模な地滑りが起こり、主要な道路が寸断されてしまう。
そして、周辺の泥流に飲み込まれた空き家から、身元不明の女性の遺体が見つかるが、検視の結果、地滑りより前に殺されていたことがわかる。
身元調査は二転三転し、謎が謎を呼んでいく。

シェトランド諸島では誰もが知り合いでありながら、その裏にはみんな秘密を抱えているのだ。

そこに現れるのが、ウィロー・リーブズ警部である。二人は互いに意識しながらも、近づけないでいる。中年の恋ですね。

ところで、本書は文庫本としては分厚いうえに、字がものすごく小さい。昔の文庫本の字のサイズだ。
最近は字が大きくなって読みやすくなったのだが、
これは寝る前に読むには適さない。
おかげで読み終わるのに苦労してしまった。






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久々のおすすめブック [本のはなし]

編集者の方からのお勧めで、梨木果歩さんの『ほんとうのリーダーのみつけかた』(岩波書店)を読んだ。

昨年7月に出た本で、8月には2刷がでていた。

私はかねてより梨木さんの大ファンで、たいてい読んでいるのだが、この本の帯に「あなたの、いちばん頼りになるリーダーはだれ?」とあったので、気になっていた。
グループセラピーをやる身としては、グループのリーダーは重要関心事なので。

果たして梨木果歩さんは、だれと答えるのだろう?
そんな興味で開いてみると、表紙の裏に、こう書いてあった。

非常時というかけごえのもと、みんなと同じでなくてはいけないという圧力が強くなっています。息苦しさが増す中で、強そうな人の意見に流されてしまうことって、ありませんか? でも、あなたがいちばん耳を傾けるべき存在は、じつは、もっと身近なところにいるのです。あなたの最強のチームをつくるために、そのひとを探しに出かけよう。

身近なところにいる人? う~ん、だれだろう。

この本は、梨木さんの『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(理論社)が岩波書店で文庫化されたのを機に、企画されたものという。

そもそも『僕は・・・』は、2006年に教育基本法が改正になり、愛国心など、個人の感情にかかわることまで明文化されたことに違和感を感じた梨木さんが、翌年に理論社のウェブページに連載したものがもとになってできた本なのだそうだ。

文庫版はこのブログでも2015年6月22日に紹介していた。
そのときに『僕は・・・』から引用していた部分を、再度ここに引用しておこう。何度読んでみてもいいところだし、今回の『ほんとうの・・・』にもつながるところだから。

人が生きるために、群れは必要だ。強制や糾弾のない、許しあえる、ゆるやかであたたかい絆の群れが。人が一人になることも了解してくれる。群れていくことも認めてくれる。けど、いつでも迎えてくれる、そんな「いい加減」の群れ。

 僕はショウコみたいなヒーローのタイプじゃない。  けれど、そういう「群れの体温」みたいなものを必要としている人に、いざ、出会ったら、ときを逸せず、すぐさま迷わず、この言葉を言う力を、自分につけるために、僕は考え続けて、生きていく。

  やあ。
  よかったら、ここにおいでよ。
  気に入ったら、
  ここが君の席だよ。

『僕は・・・』は、そのタイトルからもわかるように、最近漫画にもなって話題の吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のアンサーブックでもある。
梨木さんは、「君たち」という問いに対して、「僕は、そして僕たちは」と答えている。その意味に、遅ればせながら今回初めて気づいた。
『僕は・・・』にもよく読めば書いてあるのに。

つまり、はじめは「僕はどう生きるか」なのだ。
それから「僕たちはどう生きるか」がくる。

教育基本法の改正から15年ほど経った今、コロナ禍で人々は不自由な生活を強いられている。
強いられていると言っても、実態は強制力のない、したがって保証もない「緊急事態宣言」があるだけなのだ。
そのだれが命令しているのかがわからない中、自分の命を守るため、社会を守るためというお題目のもとに、個人の自由がないがしろにされつつある。
だが、一方でそんなことはお構いなしに、したいことをする(その権利がある)と主張する人もいる。

『ほんとうのリーダーのみつけかた』が書かれたのは、このような時だからこそ、若い人たちにも考えてもらいたいという思いからがあったようだ。

さて、リーダーはだれでしょう。




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ぎりぎりの時ほど、余裕をもって(とは思うものの) [本のはなし]

いよいよ引っ越しまであと1週間となって、
おかしなことに、まだ一週間、と思った。なんか脳が、回避的反応をしている。

今朝はなんと6時前の早朝覚醒。起きて、身の回りの荷物整理を始めた。頭はあたまはボーっとしたまま。

でも、このところおすすめブックの紹介が途切れているのが気になっていたので、
しなければいけない仕事に目をつぶって、今日は本の紹介やるぞ。

パオロ・ジョルダーノ著『素数たちの孤独』(ハヤカワ文庫)
ずいぶん前から気になっていて、hontoで電子書籍で購入していたのだが、すっかり忘れて本屋で文庫本を見つけてまた購入してしまった。
どうも家にいるとわざわざ電子書籍で読もうという気にならない。

この本の著者、ジョルダーノは、トリノ大学大学院の博士課程で素粒子物理学を専攻した院生だったときにこの本を執筆。
2008年にイタリアでベストセラーになった。ずいぶん前になる。
弱冠27歳で、イタリアの文学賞の最高峰、ストレーガ賞を受賞。
世界42か国で翻訳されているという。

さて、この物語の主人公はアリーチェとマッティアの二人。
章ごとに時代と主人公が違っていて、1,983年から24年後の2007年までの2人のエピソードが描かれる。
最初は、女の子のアリーチェ。
厳しい父親に、スキークラブに無理やり連れていかれて、身体が神経症的に反応してしまう。過敏性膀胱とか過敏性大腸のたぐい。
そのスキー場でアリーチェは事故に遭い、足にひどい障害を負う。

一方、男の子のマッティアは、優秀な成績の子どもなのだが、双子の妹ミケーラのほうは知的障害がある。ときどき、表情がなくなり、身体を奇妙に動かす癖がある。
2人は顔かたちはそっくりで、一緒の学校に通っているが、いつもミケーラは友達から気味悪がられ、嫌われる。
そんな妹がマッティアには疎ましい。
ある雪の日、マッティアは友達に誕生日パーティに誘われる。
妹も一緒に行くことになるのだが、嫌で嫌でたまらないマッティアは、行く途中に妹を置いてきぼりにしてしまう。
それっきり、妹の行方はわからなくなってしまった。

ということで、二人はそれぞれに心に深い傷を負ってしまうのである。
アリーチェは、学校で同級生にいじめにあい、マッティアは誰とも親しくならない、自傷癖をかかえた孤独な子どもになってしまうのだ。


それでも、マッティアは彼の数学の才能を認めた教師の勧めで、進学校に転校する。
自分の家族とは、階級も違う世界だ。

この二人が、あるとき出会い、互いに惹かれあうのだが、それ以上に親しくなれない。
この物語のタイトルにあるように、二人とも「素数」なのだ。
素数は、1より大きい自然数で、1とそれ自身以外の約数をもたない。
そういう孤独な存在。
しかも、素数は2,3,5,7,11…と続くが、2と3以外は、約数は隣り合って存在しない。
間に必ずいくつかの数字が挟まれるのだ。

アリーチェとマッティアもどこか傷をかかえた似たもの同士で、互いに惹かれあいながら
それ以上近づけないのだ。なんとも切ない。

前回紹介した韓国の『アーモンド』といい、この『素数たちの孤独』といい、心と身体に傷をかかえた子どもの成長というテーマの物語が、世界のあちこちで生まれて、人気を博しているというのは、現代社会の歪みを映し出していると言っていいのだろうか。

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久々の帚木蓬生さん [本のはなし]

たまたま寄った本屋さんで、新しい帚木蓬生さんの小説を見つけた。
昔は、帚木さんの新作が出るたびに本屋に行って買い込んだものだが、
その後、徐々にその熱が下がっていった。
ご本人ともある出版社の企画で、対談をさせていただいたこともあるというのに。

昨年、帚木さんこと、森山成彬先生が長年勤めてこられた八幡厚生病院にも呼ばれて行ってきた。
先生はすでにそこを辞められて開業しておられたが。
数年前に、大病されて復活し、最近は『ネガティブ・ケイパビリティ』というエッセイで話題となった。

で、今回見つけたのは『ソルハ』(集英社文庫)。
日本の小説としては珍しく、舞台は1996年のアフガニスタンである。

アフガニスタンといえば、昨年末、当地で人道支援に携わってこられたNGO「ペシャワールの会」の中村哲医師が銃撃されて亡くなったが、それ以前も長いこと戦争が続いている国だ。
この小説の背景には、1979年のソビエト連邦軍のアフガン侵攻がある。
このソ連の侵攻も、長年続いた内戦やクーデターなど国内の混乱に乗じてであって、決してそれまでもアフガニスタンは安定した国ではなかった。
そして、ソ連軍が撤退するまでの10年間に、ソ連側は14,000人以上の死者を出し、アフガン側はその数倍の被害があったといわれる。
しかも、その背景には米ソ冷戦時代の対立があったのだ。

ソ連軍に勝利したムジャヒディーンは、その後、カブールのナジブラ政権を倒すが、その後はムジャヒディーン内部の抗争が続いた。
この小説は、1996年9月、主流となったタリバーンが首都カブールを制圧したところから始まる。

主人公の少女,ビビは5歳。お母さんのロビーナは女子中学校の先生。父親のラマートはかつては火力発電所の技師だったが、操業停止になったため、今はバザールの店に勤めながら、毎日ひそかに発電所に出かけてタービンのシャフトを回している。いつか運転が再開されることを願っているのだ。
大好きな兄のカシムは中学生だ。アミンという下の兄もいる。
それに家には二人の兄の母レザも住んでいる。
このレザという女性をビビはおばさんと呼ぶが、兄たちはお母さんと呼んだりするので、
ビビの関係が最後まで分からず、???だった。
調べてみたら、イスラムって一夫多妻制だったんですね。
そんな説明は、一切なし。当然のように語られているから、現地ではそんなもんなんでしょうね。

そもそもこの物語は、ビビの視点で語られており、文章自体が「ですます調」なのだ。
まるで少年少女向けのお話のよう。

でも、描かれるのはソ連軍の空爆がなくなって喜んだのもつかの間、それより怖いタリバンがやってきたところからなのだ。

イスラム原理主義のタリバンは、女性が一人で道を歩くのも、女子教育も禁止した。
みつかるとたちまち銃殺されてしまう。恐怖の世界だ。
母もタリバンに殺されてしまう。

その後は、ネタバレになってしまうから書かないが、この物語にはアフガニスタンの長い歴史や文化がちりばめられていて、いかに自分がイスラムやアフガニスタンのことを知らないかがわかるし。
アフガニスタンは東にインダス文明、南にメソポタミア文明、西にエジプトやギリシャ、マケドニアそれにトルコといった数々の文明のはざまで、近年は北からはソ連が触手を伸ばしてくるような地帯で、覇権争いが不可避でもあったのだ。

日本のように、ユーラシア大陸の東の端の孤島で、たまに海の向こうから元寇が襲い掛かってきても、神風が吹いて勝った!という物語にすがってこられた幸せな国とは違うのだ。

アフガニスタンには海がないってことも初めて知った。埼玉みたいだ。

それに物語としても大変面白いということも付け加えておこう。
そうそう、忘れないで伝えなくては。
題名の「ソルハ」とは、「平和」という意味だそうだ。


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アーモンド [本のはなし]

ブログのアップが遅れると焦る。
このところ原稿の締め切りに追われて、毎日、PCの前に座っているのだけれど、
仕事はなかなかはかどらず、ついiPadで数独をやってしまう。

iPadの数独アプリは、マスにメモ機能がついてない。
1つのマスに2つ(ときに3つ)の数字が入る場合、
小さな文字でマスにメモしておくと、他のマスに入る数字が分かりやすいのだが、
メモができないので、いちいち覚えていなくてはならない。
結局、2つの数字のどっちかを、勘で選んでエイヤッと入れると、5割の確率で赤字がでる。
それでもう一つの数字を入れ直す・・・。
なにをいいたいかというと、無駄な時間を使っているということ。

で、ここからが、本題。

『アーモンド』という本(祥伝社)を紹介するんだった。
著者はソン・ウォンビンという韓国の女性作家。もともとは映画の脚本や演出を専門とする人らしい。

前にも紹介した、チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』も、
韓国の女性の歴史の流れを小説の中でファンタジー的要素も入れながら描きだし、
同時に社会に向けての主張が創作のなかにはっきりとあった。
この本も、似ていた。

『アーモンド』という変わったタイトルは、主人公の少年が生まれつき扁桃体が小さいために、痛みも苦しみも、喜怒哀楽も感じないアレキシサイミア(失感情症)という障害をもっていることから来ている。

扁桃体の扁桃はアーモンドの意。
記憶と情動反応をつかさどり、危険を察知したり、不安に反応したりする重要な脳の一部だ。形がアーモンドに似ているために、そう名付けられている。
最近の感情に関する心理学と脳科学の接点で、注目されている部位でもある。
それが、いち早く小説に取り入れられているなんて、それだけで驚き。
もっとも、その造形はおそらく創作によるものなのだろう。

そのユンジェ少年が母のお腹にいたときに、父親は事故で亡くなった。
以来、働きながら女手一つでユンジェを育てていた母は、研究のために治療を申し出てくれた専門家を断り、自分の息子がまわりから「変な子」とみられないよう、「ふつう」にふるまえるように、感情の言葉やただしい反応のしかたを必死に教え込む。
だが、なかなかうまくいかない。
それでやむなく、結婚した時に縁を切ったおばあちゃんのところに戻ることにする。

このおばあちゃん、なかなかの豪傑で、娘から孫の話を聞くや、「私の可愛い怪物」と言って無条件に受け入れる。

だが、ある日、母親とおばあちゃんが、「笑っているやつはみんな殺す!」と叫ぶ男に襲われ、ナイフで切り付けられる。おばあちゃんは即死。
病院に運ばれた母は昏睡状態になったまま目覚めない。

ここで、重要な登場人物が2人して消えてしまう(母は生きているが)のだが、
ここから母が開いた古書店を一人で守ることにしたユンジェの人生が大きく展開していくことになる。

まずは古書店の2階でパン屋を営むシム博士と呼ばれる初老の男性。母が生前からシム博士にいろいろと相談し、息子を頼むと言っていたという。
そして、店にやってきて、ユンジェに行方不明の息子のふりをして病気の妻に会ってくれというユン教授。
そして、その実の息子のゴニ。
さらに、古書店にやってきた運動の好きな女の子、ドラ。

ゴニは児童養護施設で育った後、養子にもらわれ、いくつもの学校を放校になり、しまいには少年院を出入りするようになった問題児。
ようやく本当の親であるユン教授と会って引き取られるのだが、その非行はおさまらない。
ユンジェにもいろいろと絡んで、手ひどくいじめるのだ。
だが、ユンジェが痛がりも怖がりもしないのを見て、ますますムキになるゴニ。

ゴニはどうしてユンジェが何にも反応せず、嫌がりもしないのか、わからない。
ユンジェはゴニがどうして自分を残酷に痛めつけようとするのか、わからない。

そして、徐々に物語は悲劇に向かっていく…。

この小説は、感情をかんじないというユンジェの視点で世界が描かれているので、
同調圧力の強い今の世の中の異様さ、残酷さが、逆に見えてくる。
「共感できない」ユンジェが発する問い「大部分の人は、共感すると言いながら簡単に忘れてしまうのはなぜ?」は、今の世の中をするどく指弾しているようだ。

そして、ユンジェもゴニもドラも、出てくる子どもたちは、「ふつう」からはみ出した子たちなのだ。
登場する大人たちも、みな、どこか傷ついていて孤独のなかにいる。

ユンジェとゴニは、正反対のように見えて、実は。
扁桃体は脳に左右2つあるのだ。

最後は息もつかず読んでしまった。

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子どもを持つママたちのための応援歌 [本のはなし]

いつも時間が過ぎるのが早すぎると嘆いているけれど、今回ばかりは信じられないほどの速さ!
前回紹介した中国ドラマ「バーニング・アイスー無証の罪」は終わってしまった!

最後の2~3回の急展開は、想像を超えるものだった。
菊池桃子似のヒロインと同級生で、法律事務所に勤める弁護士の卵は、ずっとさえない男の子だったのだけど、ここでぐっと変身!
その演技力ったら!驚くべきものだった。
そういう意味では、捜査にあたる規格外の刑事役の男性俳優も。
この人が主役だったんだねえと後で納得。

それにしても、中国で連続殺人鬼のドラマなんてね。
法律事務所の所長も、女たらしの金の亡者だし…。
バッグの中から紙幣の束をまるめた大金がでてきたり、
その大金と引き換えに殺人を引き受けるプロの殺し屋のサイコパスなんか、まるでアメリカのドラマじゃないの。
社会主義はどこへいっちゃったんだ?

いやいや、こんなことを書くつもりではなかった。

今日は、加納朋子さんの『我ら荒野の七重奏(セプテット)』(集英社文庫)を紹介するんだった。

これはかの、日本初のPTA小説『七人の敵がいる』の続編。
七つながりですね。
今回は、出版社の編集者、山田陽子の一人息子、陽介も小学校6年生となり、突然、私立高校に進学したいと言い出すところから。
クラリネットを演奏する先輩を見て、すっかりその後を追いたいという気になったのだった。
小学6年からのお受験では、とうてい合格するはずもなく、公立高校の吹奏楽部に入ることになるのだが…。

つまり、今回はPTAではなく、中学のクラブ活動が舞台。
そう、スポーツであれ音楽であれ、今の学校の部活は、本人だけでなく親が大変なのだ。
その顛末。
いつものように、ブルドーザーと悪名高い陽子、他人のことには共感能力はゼロなのだが、息子のことになると敏感に反応して後先考えず、突進していくのだ。
それでも、経験から少しずつ学んでいく。

彼女とて、だてに長年キャリアウーマンをやっているわけではない。人を見る目は確かだし、マネジメント能力は抜群なのだ。
もちろん、そんな陽子にも見通せない能力をほかのママたちも発揮するのだけれど。
今回は、保護者にママたちだけでなく生徒のおじいさんが登場。
風貌がゴルバチョフに似ているところから、ゴルビーと呼ばれることになるおじいさんだが、
なかなか良い働きをするのだ。

学校という組織と保護者との関係や、保護者同士の関係など、コンサルテーションのテキストとしても大変興味深い小説である。
これと双璧をなすのは、今野敏の『任侠シリーズ』だな。
出版社から、高校、病院、そして銭湯と、さまざまな組織に任侠の一家が入り込んで、次々と問題を解決して解決していくというシリーズ。

世間からは白い目で見られるようなはずれ者が、コチコチに固まって機能不全に陥った組織を再生させていくというパターンでは、共通しているかな。
陽子さんは、そこそこ社会では成功しているキャリアウーマンだし、はずれ者というのは言い過ぎだけど、世間の常識にはなじまないどころか、反発を感じるという点でははずれ者なのだ。
常識的なママからは、<狂犬>と思われたりするほどの。

『荒野の七重奏』というタイトルは、当然ながら黒澤明監督の名作「七人の侍」を西部開拓時代のメキシコに舞台を移してリメイクした『荒野の七人』を連想させる。

子どもを持つお母さんたち、お疲れ様です。
このシリーズを読んで、少し癒されて欲しいものです。
 






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図書館が主人公? [本のはなし]

図書館好きにはたまらない小説を読んだ。
しかも、登場する舞台が谷根千などの文京区と上野の山周辺。
これまた、歩いていけるところばかりで、たまらない・・・・

中島京子さんの『夢見る帝国図書館』(文芸春秋)。
Facebookで中島さんのフォロアーになっているので、さん付けでないと。
去年の5月に出て、半年後の11月にはもう第7刷。
いろいろなところで書評にとりあげられているから、すでに読んだ方も多いと思われるが。

先日紹介した、『シリアの秘密図書館』など、けっこう図書館がテーマの本ってたくさんあって、見ると手に取って読んでみたくなる。
この本では、とうとう図書館が主人公になってしまった。

といっても、そう単純ではなくて、語り手(わたし)は作者自身のように思える小説家(最初はまだなってはいないが)なのだが、物語の主人公は喜和子さんという年配の女性。
上野公園のベンチで偶然出会ったところから、その物語は始まる。
全面開館した国際子ども図書館を取材した帰りだった。

上野の国際子ども図書館は、建物が素敵な図書館と聞いていたし、子ども図書館というのも魅力的でいつかは行ってみたいと思っていたが、いまだに訪れてはいない。
その図書館が、この物語のもう一人(?)の主人公なのだ。

喜和子さんは、短い白髪に端切れをはぎ合わせて作った、「クジャクのような奇妙奇天烈なコート」を身にまとっていた。コートの下には「茶色の、長い、頭陀袋めいたスカート」に、運動靴というスタイルそして、。

偶然となりに座った喜和子さんは、彼女の吸う煙草にむせてしまった「わたし」に、根津神社近くで買ったという金太郎飴をくれる。(地元の人間としては、もうたまらない)
昔に上野の図書館に住んでいたようなものだという。
そして、「わたし」が小説を書いているというと、喜和子さんは「あたしとおんなじ!」と握手を求めた。

こうして、奇妙なふたりの交流がはじまるのだが、
少しずつ語られる喜和子さんの人生は、戦争から戦後の日本という国の有為転変をそのまま映したようなものだった。
はたしてそれはほんとうのことなのか。
「図書館に住んでいたようなもの」という言葉の意味は?

私は知らなかったのだが、この図書館、かつては帝国図書館とよばれていたらしい。
その昔、日本が列強に伍して強くなろうとしていた時代に、西欧諸国にあるのような国立図書館を作りたいと情熱を燃やした人がいた。
そうした人々の奮闘の物語が、現代の物語の進行の合間に挿入されるのだ。
(なぜか歴史上の人物が現代の口語調でしゃべる!)
軍事費の膨張によって予算が削りに削られ、建設計画も途中で止まってしまったり、万博開催のために神田聖堂に移されたり…。
そのあたりは現在の国情とそっくりで、明治も戦前も今も変わらないことに、暗澹たるたる思いになる。

その転々とさせられた図書館には、幸田露伴や淡島寒月、尾崎紅葉、夏目漱石、森鴎外、徳富蘆花、島崎藤村、田山花袋といった、今では文豪と称されるそうそうたる作家たちが足しげく通っていた。
そういった作家たちの姿を、帝国図書館が証言するのである。
そして、中でも帝国図書館がもっとも愛したのは樋口一葉だった。 
それに、宮沢賢治まで登場する!

・・・というふうに、図書館の目撃談というかたちで日本文学史が語られていくのである。
もちろんそれは文学の歴史だけではなく、日本という国の歴史でもある。
その昔、徳川家菩提寺の上野の寛永寺は、今よりはるかに巨大な敷地をほこる寺で、彰義隊と新政府軍が闘った上野戦争以降も反体制的な人もふくめてさまざまな人が流れ込んで来た特異な土地柄であったこと。
戦後も上野の公園口あたりに、戦災で家を失くした人たちが集まって「葵部落」と呼ばれる巨大なバラック集落ができていて、自治会などもあったこと。
ところが、1960年頃に撤去されて、東京文化会館や国立西洋美術館が建ったこと。
それから間もなく東京オリンピックがあったのだ。

ちなみに、Wikipediaで「上野戦争」を調べてみると、今、住んでいる周辺の地名が次々に出てきて、驚いてしまう。外国人観光客でにぎあう谷根千周辺が戦場だったのだ。
この小説にも一部描かれているのだが、wikipediaの記事を紹介しよう。

5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。

あんまり、物語の中身を書いてしまうと、営業妨害になってしまうのでこれくらいにしておこう。
喜和子さんという人がどんな人だったのかという謎と、
帝国図書館の歴史と、1冊読んで2度楽しい、味わい深い小説なのである。


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アイスランドの闇 [本のはなし]

4月から月10日勤務の契約となったので、毎日在宅しているのを在宅勤務といってよいのか悩むが。
3月の最終週から出勤していないから、もう4週間、ほぼ1ヶ月、家に閉じこもっていることになる。

といっても、ほぼ毎日食料品の買い出しに徒歩2分のスーパーに行っているから、自粛にならないのかも。
でも、野菜や果物、牛乳など、買い置きができないものは買い出しに行かざるを得ないし。
これで感染していたら、そして感染を広げていたら、世の中相当感染が広がっているということだろう。
毎朝、眼が覚めると熱っぽくはないか、体調はどうかと気になる。
ここ2、3日喉がいがらっぽいが、熱は5度台。
だるくもないし、嗅覚異常もない。大丈夫だろう(と自分に言い聞きかせる)。
その後、喉のいがいがはなくなった。

さて、今日のおすすめブックスは、久々の北欧ミステリ。
アイスランドの作家ラグナル・ヨナソンの『闇という名の娘』(小学館文庫)。
名前にソンがついているから男性だな。(親の名前に男だとソン、女性だとドッティルがつく)

アイスランドのミステリや映画は、やはりその極北の自然のせいか、独特の雰囲気がある。
さらに、この本が独特なのは、主人公が65歳で定年退職目前の女性警官だということだ。

ミステリでは退職寸前や退職した男性刑事や警官の物語はよくあるが、その年まで勤務した女性が主人公になるのは珍しい。
だが、日本よりはるかに女性の社会進出が進んでいると言われている北欧である。
日本とはだいぶ状況は違っているだろうと思いきや、働く女性が味わう昇進にあたってのガラスの天井だとか、セクハラだとかは、まったく同じだと言ってよい。
(私と同世代ということで、読んでいて身につまされる所も多い)

主人公のフルダ・ヘルマンドッティルは、そうした社会に対するうらみを抱えながら働いてきたが、
お世辞にも世渡りはうまくなかったのも事実。
年下の上司から、定年前に辞めるようにいわれたフルダは、最後の花を咲かせて見返そうと、未解決事件の解明に取り掛かる。
1年ほど前に起きたロシア人女性の溺死事件だ。
ロシアからつれられて来て、難民申請をしていたところだった。
きちんとした捜索はされないまま、自殺と断定されていた。
売春を目的とした人身売買か?

このあたり、ロシアと北欧諸国の第二次世界大戦時代からの複雑な関係を背景としていて、北欧らしい社会派ミステリーの様相を見せる。

一方、フルダの個人的な背景も、この小説のもう一つの柱である。
彼女の夫は心臓病で死に、一人娘も13歳のときに不慮の死を遂げていた。
未だにフルダは娘の死の痛手から回復していない。
悪夢にも悩まされている。

ただ、最近、フルダは70歳近い元医師ピェートゥルと付き合い始めた。
彼もまた妻を病で亡くしていた。
彼はフルダに親愛の情を示すが、無理に近づこうとするわけではない。
付き合いを進めたいが、親密な関係への恐れもある。

こういうストーリー展開になると、ついこの親切な男には何か裏があるのではないか、
騙されて、途中でとんでもない男だったとわかるのではないかと、つい深読みして読んでしまう。

だが、ロシア人女性の不審死の捜査の物語と
この人生の黄昏時を迎えた二人のロマンスの物語の合間、合間に
フルダの過去になにがあったのかを追想するエピソードと
誰かはわからないが若い男女のロマンスのエピソードが挿入される。

この男女は、知り合ったばかりで山歩きに出かける。
といってもアイスランドの山である。
人っ子一人いない山道を歩くにつれて雪が深くなり、寒さが増していく。
アイスランドの冬は昼でも薄暗く、いつが昼か夜か判然としない。

こうして幾つかのストーリーが絡み合って進む中で、
いったい、フルダという主人公はどういう人間だったのか、はたして彼女が自分で思っているような人間だったのかという問いが浮かんでくる。

ここでネタバレになってしまうが、
実は、この小説のタイトルである「闇という名の娘」というのは、フルダの娘のことなのである。
だが、本当に闇だったのは誰なのか?

この本の帯に
”誰もが想像できない結末ー「この読後感のストレスは、なんだ!?」”と書かれている。

たしかに。
新型コロナの脅威にさらされながら、閉じ込められた状況で読むには、少々重すぎる物語ではあるかもしれない。
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知らないアラブの世界 [本のはなし]

あっという間に新年に突入してはや2週間近く。
世界は不穏な動きが続く。
何より心配なのは気象変動と地殻変動。
フィリピンをはじめとする太平洋沿岸地域で火山の大噴火や地震が続き、昨夜は筑西市で震度4。姉はしょっちゅう揺れているから気にならないと言っていたが。

そして、イランの情勢。
アラブ地域は40年近く前にエジプトに行ったことがあるが、
その頃のエジプトは、キリスト教の十字架とイスラム教の半月、それにユダヤ教のダビデの星を掲げた3つの教会が街の中心地に同居しており、もともとアラブは宗教には寛容なのだと言っていた。
だが、その後はエジプトでも観光客が襲撃されるなど、うかうかと近寄れない雰囲気になってしまった。

その後、アフガン戦争やらイラン・イラク戦争やらがあり、911があり、イスラムはどんどん過激化していった。
と、書きながら、こういった動きがどんな順序で起きたのか、思い出せない。
それぞれの国がどこに位置するのかも定かではない。遠い昔、地理で習ったのだが…。

話は逸れるが、元日産のカルロス・ゴーン氏はレバノン出身ということだが、かつて1982年に『炎熱商人』で直木賞を受賞した深田祐介は、レバノンとシリアの商人は、「レバ・シリ商人」といってたいへん商才にたけていて、世界中で成功をおさめていると書いていたことを思い出す。
昔から東西の交通の要衝にあって、交渉術などにもたけている人が生き残っていったのだろう。もちろん政治力も必要だ。とにかく、清濁併せのむようなところがないと生き延びてはいられまい。

イランとイラクだって昔は戦争したのに、今は友好国でイランの米軍基地へのミサイル発射だって、イラクを通じてアメリカに事前に通報してあったというではないか。
世界には「今日の友は明日の敵」「今日の敵は明日の友」という現実があるのは、『リンドグレーンの戦争日記』でもたびたび記されていたことだ。

その上に、イスラムにもシーア派とスンニ派があって対立しているというから、ますますわけがわからなくなる。
現地で人道活動を続けている高遠菜穂子さんによれば、政府の発表と人々の気持ちは相当違うのだそうだ。https://iraqhope.exblog.jp/29866057/

例によって、前置きが長くなってしまったが、今日のおすすめブックは『シリアの秘密図書館ーがれきから取り出した本で図書館を作った人々』(東京創元社)

シリアといっても、正確には「ダラヤ」という町。
著者のデルフィーヌ・ミヌーリは、フランス生まれの40代のジャーナリスト。現在はイスタンブールに在住し、シリアの現状を伝え続けているという。
彼女は、たまたまフェイスブックでこの町に住む若い写真家集団のページでこの町の秘密の図書館の存在を知り、以後、スカイプなどのSNSを通じて連絡を取り合ってきた。

ダラヤといっても、知っている日本人はほとんどいないのではないだろうか。
では、「アラブの春」を知っている人は?
「ジャスミン革命」は?

私も聞いたことはあるような気がするが、今回この本を読んでようやくわかった。
実は「アラブの春」が起きたのは、2011年のこと。
はっきりとした記憶がないのは、東日本大震災でそれどころではなかったからか。

そしてそのきっかけとなったのが、2010年のチュニジアの「ジャスミン革命」だった。
Wikipediaを借りると、次のような出来事だったそうだ。

「一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件である。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された。
この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなどほかのアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。こうした一連の動きはアラブの春と呼ばれた。」

このアラブの春とよばれる人々の民主化を求める平和的なデモが始まった地のひとつが、ダラヤだった。まさに2011年3月のことだった。
しかし、翌2012年にはシリアの元首アサドは、ダラヤが反政府勢力のテロリストの巣窟だとして軍隊を派遣、ダラヤは包囲され、絶え間ない爆撃を受けて廃墟となった。
だが、そのがれきの中から人々の手によって数千冊の本が救い出され、廃墟となった建物の地下に運び込まれたのだ。

中心人物の一人、アフマドはダマスカス大学で工学を学び、ジャーナリストになることを夢見ていた青年である。彼は完全に封鎖された街に留まり、街の新しい評議会が作ったメディアセンターに加わり、荒廃した町をカメラで撮影し、動画をネットにあげていた。
それを偶然著者が見つけたのだ。

アフマドが語った図書館ができたいきさつはこうだ。

ある日、友人が崩れ落ちた家の下になった本を掘り出したいから助けてくれと頼んできた。
アフマド自身は読書家ではなかったのだが、破壊された家の床から1冊の本―英語で書かれた心理学の本だったーを手に取り、中を見たとき、彼の中の何かが変わったのだ。
そのときのことは、こう書かれている。

 「彼は震えた。彼の中のすべてが揺れ始めた。知の扉を開いた時の心を乱すざわめきだった。一瞬、紛争の日常から逃れる感覚、たとえわずかでも、この国にある書物のひとかけらを救ったという感覚。そのページを潜り抜けて未知の世界へと逃げ出すような感覚だった。」

やがて、40人ほどのボランティアが空からの爆撃の隙を狙って残骸を掘りに行き、1週間で6千冊の本を救い出した。一か月後には1万5千冊になった。
ダラヤの新しい評議会は、ダラヤ初の公共図書館をつくることを決めた。
そして、前線からほど近くにある放棄された建物の窓に砂袋を積み上げ、地下に発電機を据えた。
集めた本の汚れをぬぐい、修理し、仕分けし、記録して揃えた。
1冊1冊に番号を振り、最初のページに元の持ち主の名前を書いた。いずれ返せるように。

図書館は礼拝の日である金曜をのぞき、9時から17時まで開館し、毎日25人ほどの来館者があった。
しかし図書館の外では、飛行機から樽爆弾が投下され、狙撃兵が銃口で市民を狙い撃ちしていた。

こうした体験の一部始終を、著者は途切れ途切れのネット画像を通してリアルタイムで知ることになった。
だが、モニター越しにアフマドたちが次から次へ語ったのは、読んだ本についてである。
読書は残酷な現実を生き延びるための治療ー読書療法ーだったのだ。

だからこそ、人類は繰り返し書物を焼き払い、図書館を破壊してきた。
バグダッドの大図書館は侵入してきたモンゴル兵によって破壊され、大量の書物がティグリス川に投げ込まれた。
ヒトラーも反体制派の数千冊におよぶ書物を一夜にして焼き払った。

この本には、シリアの現代史が記されている。
それは80~90年代からの、私にとってはつい最近の出来事なのに、何も知らなかった。
そのなかでもダラヤは特異な文化を育んでいったことがわかる。
アサド政権の恐怖政治が支配するシリアにあって、ダラヤの人々はイスラムでも進歩派の導師を中心に、ムスリムの思想家で非暴力の概念を説いたジャウド・サイードなどの著作を学んだのだ。
そして、環境保護のための啓発活動、地域への街路清掃の呼びかけ、腐敗との闘いなどの新しい市民運動が生まれた。

イスラエルから難民キャンプへの攻撃の際にも、ダラヤでは過激で短絡的な反イスラエルの動きは起きなかった。
「私たちの問題はイスラエルではない。アサドでもない。私たちの問題は、私たちの臆病さ、教育の欠如、物事を動かそうとする勇気の欠如なんだ」と説いたのは、仲間から「教授」と呼ばれたムハマド・シハデ37歳。
街が包囲されてから、アフマドたちは教授の授業でこうした街の歴史を学んだ。

公立図書館を作ろうと決めた評議会など、ダラヤでは人々の話し合いによる民主的なシステムが機能していたのだ。

だが、ネタバレになってしまうのだが、完全に包囲されたダラヤは国際社会への訴えも空しく、1350日続いた樽爆弾、サリンガス、ロケット弾、大砲によって徹底的に破壊された。食料や医薬品さえも搬入を拒まれ、食べものも尽き、ただ彼らが”シェリ”と呼ぶもので飢えと戦っていた。
”シェリ”とは雑談のことだ。たわいもない話をすることで、空腹を忘れ、正気を保って生き延びたのだ。

だが、一番熱心な図書館の利用者だった反政府軍の兵士オマールが死に、町全体を焼き尽くすナパーム弾が投下されるに及び、最後まで残った人々も町からの退去を決断したのだった。

死んだオマールは、政権側からはジハード主義者とレッテルを貼られていた。
だが、彼はイスラムというより、正義と人権を求めて反政府軍に入ったのだ。
彼はカラシニコフ銃をもちながら、イブン・ハルドゥーンが大好きで政治や進学の本をよく読んでいた。
彼は、前線に<ミニ図書館>を作ったのだ。
ほかの兵士たちも爆撃が止むと、本を交換し合った。
彼は、「本を読むのは、何よりもまず人間でありつづけるためです」という。
この本の冒頭には、アフマドが撮影した戦線で読書する兵士の写真が載っている。

オマールは死んだ。だが、彼らの精神だけは破壊されないでいる。
著者が彼の死を悼んで最後に引用したアルチュール・ランボーの「谷間に眠る者」という詩に心打たれた。

それにしても、おそるべし、ネットの力!



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