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信州・上田の旅の収穫 [本と旅の話]

今月上旬、仕事で信州は上田に行ってきた。

上田は、病院に勤めていた頃、同僚から勧められて読んだ池波正太郎の『真田太平記』にはまって以来、ずっと惹かれていた場所。
上田に着いたのが夕方の4時半で、観光する時間もなかったので、タクシーで上田城の周りをぐるっと回ってもらい、そのまま池波正太郎真田太平記館へと向かった。
ここには池波正太郎の生原稿はもちろんのこと、すばらしく達者な絵や自筆の年賀はがき、愛用の万年筆など身の回りの品々が展示されていて、彼の人となりを初めてよく知ることができた。

彼は、大正12年1月に東京・浅草に生まれたが、同年9月に関東大震災で被災し、親戚を頼って浦和へと移り、6歳まで過ごしたという。その後、東京に戻って谷中に住んだりしていて、なんだか私の身近な所に暮らしていたと知ると、ますます親近感が湧いた。

彼の人生に興味をもったので、売店で昭和43年(私が大学に入った年!)に出版された『青春忘れもの』(新潮文庫)を購入、自宅に戻ってさっそく読んだ。

これは彼がいかにして作家となったかを、自身の半生をたどりながら書いたものだ。
浦和もちょこっと出てくる。
だが、なるほどと思ったのは、やはり彼の家庭環境だ。
時代小説を書く人には、単に歴史の知識だけでなく、江戸を始めとする日本の昔の人々の生活や文化、そして芸能などへの造詣がなくてはならないと思うのだが、とくに池波正太郎の小説には、食へのこだわりとともに、そうした文化が生き生きと伝わってくる感じがしていた。

彼の祖父は東京でも名の通った宮大工の棟梁。義太夫や芝居が大好きで、孫をよく芝居に連れて行ったという。
彼の父はその長男。だが、変わり者で大酒のみために夫婦別れして、母子は苦労することになる。
だが、彼自身は父親が悪い親だったとはいわない。むしろ、気の強い母親にも責任がある、というような口ぶりである。
この母親、後に再婚して家を出ていき、彼は祖父や伯父のもとに預けられる。その後、再び出戻った母親の腕には小さな男の子が。彼が「その子誰」と聞くと、母親は「あんたの弟だよ」と答えた。

父方の伯母は吉原の芸妓で、有名な日本画家のお妾さん。
二番目の伯母は引手茶屋を営み、下の叔母は歌舞伎座で小鼓を打っていた人に嫁いだ。
というわけで、6歳で東京・下谷に戻った彼は、幼い頃から花柳界や歌舞伎座などに出入りして、芝居や芸事だけでなく日本画などにも親しんでいたのだ。
彼の小説の色っぽさは、筋金入りなのだ。

彼は寝ているのが大好きで、ほかには画を描いていれば何もいらないというような子どもであり、将来は鏑木清方の弟子になるつもりだったそうだ。確かに、展示されている絵はとても上手だ。

それにおいしい食べ物への執着も、子どもの頃から。貧乏で普段はおいしいものを食べられなくても、大人に食べに連れて行ってもらったり、たまにお駄賃をもらっておいしいものを食べる喜びはひとしおだったのだろう。人生の中でおいしいものの話が途切れることはない、という感じ。

生涯の友というべき「留吉」と会ったのも、常連となった牛めし屋でめしの値段を巡って取っ組み合いの喧嘩になったのがきっかけだった。そのときなんと、10歳だというから驚きである。

小学校を出た後、彼は母の勧めで「カブ屋」になる。株式仲買の仕事だ。言ってみれば、人のカネでばくちを打つようなもの。子どもなのにあぶく銭を身につけ、留吉と一緒に芝居を見に行ったり、おいしいものを食べ歩いたり、長唄を習ったりしている。
吉原の芸妓に面倒をみてもらったり…。彼の小説は実体験がかなり反映しているんですね。
実際、この『青春忘れもの』という本には、これまでの人生を描いたエッセイの後に、「同門の宴」と題した時代物の小説がついている。そこに登場する人物の像は、彼の半生記に登場する人物とほとんど重なっており、彼も自分の作品がどのようにして生まれるのかを示したくて、この小説を付けたのだという。

太平洋戦争では海軍に入り、それなりの苦労をしたようだが、一貫して苦労を苦労とは思わず、父親のことも母親のことも(海軍の厳しい上官に対しても)かなり距離がある書き方だ。彼の小説に登場する親子関係とはちょっと違うようだ。

終戦後は、なんと驚いたことに、下谷の役場で、GHQから支給されたDDTを撒布する仕事に就く。下谷の保健所だ。またまた私の知っている場所。
若い人は知らないだろうが、私も子供の頃は夜寝る前に頭から寝巻の中から、筒状の入れ物をパフパフさせて、白い粉だらけになったものだ。ノミやシラミを退治するためだ。

実は、彼は67歳という若さで亡くなっているのだが、その死因が白血病だという。
この若い時期のDDT撒布と関係がありそうな気がするのだが・・・。

子どもの頃から吉原に出入りしたような人が公務員になり、新国劇の劇作家になり、やがて何冊もの小説を書いて世に広く認められるようになり、最後は白血病であっけなく亡くなるなんて、その人生自体がドラマのようではないか。

     ★ ★ ★

ちなみに池波正太郎真田太平記館には、真田家の品々もたくさん展示してあり、真田幸村の自筆の手紙(読めない!昔の人はどうしてこれが読めたのだろう)も数々ある。

それに大阪夏の陣・冬の陣の戦いの様子をCGで見せる仕掛けもあって、小説では想像力が及ばないところを補ってくれる。
忍忍洞というまっくらな通り道もあって、真田家の草の者(忍者)について紙芝居のような仕掛けで見せてくれたりする。










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